エモンズの全貌を復元!
水底に横たわり眠るエモンズ。
USSエモンズ(USS Emmons, DD-457)は1941年8月23日に進水しているが、1941月9日にUSSエモンズは高速掃海艇に艦種変更されUSSエモンズ(USS Emmons, DMS-22)となっています。
空母レンジャー、アメリカの航空母艦で最初に設計された正規空母艦の護衛に着いた掃海駆逐艦としても本国アメリカでは有名な話と言うのを沖縄金武町のマリーンからお話を聞きました。
アイスバーグ作戦
アメリカ軍および連合軍は日本を降伏させるための第1段階として沖縄侵攻作戦をたて、「アイスバーグ(氷山)作戦」と呼んでいました。戦後、沖縄を占領し、軍事基地にする戦略構想がたてられていました。
沖縄の島々の地図や民事ハンドブックを作成し、歴史、地理、民俗などを詳細に調べ、占領後の住民の保護、占領行政など、周到な準備をしていました。
沖縄は、日本本土を攻略し、降伏させるための足場として、地理的に有利な位置にありました。アメリカ軍は、太平洋戦争最大の上陸作戦を開始したのです。
兵員・物量ともに日本軍をはるかに上回る強大なアメリカ軍の攻撃は、沖縄本島を一木一草もないほどに焼きつくし、山野の形も変えてしまいました。
すぐに攻略できると考えていたアメリカ軍でしたが、攻略にてこずり激烈な戦闘が3ヶ月にもおよび、住民たちは絶望と恐怖のなか戦場を逃げまどい、日本兵を上回る死者をだしたのです。
エモンズは1945年4月6日にアイスバーグ作戦(沖縄戦上陸)に向けての任務であるレーダーピケットの護衛にUSSロッドマン(USS Rodman, DMS-21)と従事していた所を伊江島沖で大日本帝国軍の攻撃を受けました。
先にロッドマンが攻撃を受け、ロッドマンを守りながら戦う形になりました。
応戦していたエモンズですが、特攻機の同時攻撃を受け操作不能になりました。
エモンズはまず船尾に攻撃を受けました、急速に減速したエモンズはその直後同時に攻撃をうけました。
まずNerve center・操舵機室を狙われ、次に戦闘指揮所の左舷側、4番目に三番砲の右舷側、5回目に右右舷側の喫水線30あたりに攻撃を受けたと記録が残されています。
同調するかのようにと記載されているので、ほぼ同時に攻撃を受けたことが分かります。
当時のエモンズのキャプテン・フォスは二回目の攻撃でブリッジから吹き飛ばされ盲目になったと語っています。
代わりに指揮に着いたのはグリフィン砲兵将校と記録されています。
船を放棄する命令を拒否したのはグリフィン砲兵将校です。
船体後部は欠落し、舵はは吹き飛ばされています。
第1砲のから前方は火災でほとんど残っていません、20mm砲の弾薬が爆破し消火ホースも火災にあっていたため消火は困難です。
幸いにもエンジンスペースが無傷だったらしいです。
水中の負傷者を引き上げて近くの掃海艇に、このために放棄を拒否したのでしょうか。
重傷者はエモンズの船内で治療を、重症ではない負傷者は救助船を待つボートに、動けるものは浸水を防ぐ者と火災を消す者に分かれ戦ったみたいです。
PGM-11というアメリカ軍の船も支援に参加しましたが、負傷者を移送している時に荷役室から大爆破が起こり、エモンズを放棄するよう命令が下され、エモンズを放棄しました。
当初は伊江島に向かって漂流していたと記録されています。
1945年4月7日土曜日の早朝、USSエリソンの状況調査に代替案を提示され、エモンズは沈めるよう命令が下されました。
エリソンから放たれた5インチ砲によって、エモンズは同日沈められました。
3年4ヶ月と2日の高貴な船エモンズの悲しい結末と記載されています。
272名の乗員中、57名が戦死または行方不明、71名が負傷。
沖縄近海では13隻のアメリカ軍の船が今だ沈んでいる様です。
エモンズの指揮官のうちの一人の記録書を元に制作しました。